足利義満による日明貿易について

足利義満による日明貿易について

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中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。

 

足利義満による日明貿易について

 

足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。

 

これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。

 

明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。

 

 

日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。

 

なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。

 

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守護の勢力削減

 

守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。

 

最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。

 

その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。

 

 

これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。

 

将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。





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