上杉禅秀の乱とは何か?

上杉禅秀の乱とは何か?

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1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。

 

上杉禅秀の乱とは何か?

 

まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。

 

とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、1416年から17年にかけて、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉禅秀(氏憲)とが敵対し、上杉禅秀の乱が勃発します。

 

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一旦、簡潔に室町幕府の組織について説明をいれておきます。まず、将軍の下には管領という補佐役がいて、任命されていたのは細川、斯波、畠山氏の中からでした。この三氏は三管領といわれていました。

 

管領のもとには鎌倉幕府と同じような役職があって、例えば侍所、政所、評定衆といったものですが、それぞれやることは少しずつ違っていました。次に、地方機関についてですが、旧幕府があった鎌倉には鎌倉府が設置され、鎌倉公方がそこの長官で、関東管領がそれをサポートしていました。鎌倉以外には、九州探題、奥州探題、羽州探題が設置されています。

 

つまり、本当は足並みをそろえつつ、鎌倉公方と関東管領は地方行政をおこなっていくべきなのですが、関東管領である上杉禅秀が、鎌倉公方である足利持氏に反発したのが上杉禅秀の乱です。これは結局成功はしませんでしたが、一時は関東中に混乱が広がり、しばらく鎌倉公方と関東管領の対立が続くこととなりました。





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