戦国時代における下克上とは?
ツイート中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。
寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。
しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。
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そして、その陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。結局は毛利氏に倒されて支配されてしまいますが、それまで中国地方は大内氏と尼子氏の地盤でした。
土佐(高知県)の国人の出身である長宗我部氏は、四国を支配していました。また、九州で勢力を誇っていたのは、ともに守護出身の大友氏、島津氏で、それぞれ豊後(大分県)と薩摩(鹿児島県)の支配者でした。
京都に近い美濃、尾張、越前、近江、山城のあたりには、場所のこともあり、地位の高い人が守護として任されています。こういったところで下克上が頻繁に起こるのです。例えば、三管領の一つ、将軍を補佐する家柄である尾張の守護・斯波氏は、彼の守護代だった織田氏と朝倉氏に下克上されています。
浅井氏は近江で力を持っていましたが、この人も、侍所の頂点にいた京極氏を下克上しています。山城では、細川晴元が家臣の三好長慶に倒されていますし、さらにその三好を部下である松永久秀が倒しています。
あまり長い時代ではない戦国時代ですが、この100年にも満たない時期を地域別に見ていくと、その土地ごとにいろいろと特徴があることが分かってきます。
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