応仁の乱のキッカケとは何か?
ツイート八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。
一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。
加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。加賀の守護である富樫政親を討伐して、門徒や僧、国人たちによる連合政権を樹立し、1世紀にもわたって加賀地方を本願寺が制することとなりました。
応仁の乱が起きた後は、日本全国をすべてひっくるめて治める政権がなくなってしまった状況だったので、とても混乱していました。
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戦国大名が割拠する世界
そして、ここからが戦国時代のはじまりです。戦国大名が支配していた地域のことを分国(領国)といいます。各地で登場した戦国大名が分国を支配していき、周りの地域と武力による戦争を繰り広げていく時代です。
非常に込み入った時代ですので、戦国時代を時系列で見ていくことはしません。本書の目的からも逸れてしまいますので、地方別に有名な、または特徴のある戦国大名を簡潔に紹介していくことにします。
まず、伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。伊達氏は守護大名からではなく、国人出身なので、地元に土着していた武士が名を上げたケースです。地域に密着した武士が戦国大名として有名になっていくことは珍しくありませんでした。
鎌倉時代の北条氏とはまた別系統ですが、関東地方では、北条早雲とその一族が、小田原を拠点にもりもりと力をつけていきました。その頃、関東には鎌倉公方がいましたが、それは足利幕府の役職で、堀越公方と古河公方の二つに分かれていました。
そのほかに、関東管領の上杉氏もいて、こちらも扇谷上杉と山内上杉の二つに分裂していましたが、北条氏はそれらを抑圧することで、関東圏の支配力を高めていったのです。越後(いまの新潟県)の守護である山内上杉は、関東管領の仕事があったので、多くの時間、鎌倉にいましたが、それでは越後の管理が行き届かなくなります。
それではいけないということで、守護代といって、かわりに守護の仕事をしてくれる人を置くことにします。地元で家臣たちをまとめる仕事をするのが守護代ですから、結果的に代理である守護代が戦国大名になっていくケースがとても多かったのです。
長尾景虎という人が、越後で上杉の守護代を務めていましたが、彼は上杉憲政の養子になって家督を継ぎ、上杉を名乗るようになり、上杉謙信となっていきます。この上杉謙信と仲が悪かったのが、武田信玄で、彼は甲斐・信濃(山梨・長崎県)の大名を務めていました。
信玄は守護の出身で、川中島で謙信と戦うことになります。今川氏も守護出身で、遠江・駿河(いまの静岡県)を支配しました。中部地方では、尾張の織田氏が有名です。北陸地方では、越前(福井県)を支配した朝倉氏が有名です。一乗谷を拠点とした朝倉でしたが、早いうちから家臣に城下町で生活することを命令したことで世に知られています。
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