光仁天皇の即位について

光仁天皇の即位による仏教勢力からの離脱

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天武、文武、聖武、孝謙・称徳というように、壬申の乱の後は天武系の天皇が続いていたのですが、ここで子孫が途絶えてしまいます。称徳天皇は夫も子どもも持たなかったのです。そこで藤原百川たちは、道鏡などのこの国を統べている体制に反発し、白壁王を担ぎ、光仁天皇として即位させました。

 

光仁天皇の即位による仏教勢力からの離脱

 

光仁天皇は自他ともに天皇になるなんて思ってもいなかったようです。というのも、朝廷に入ったとき彼はすでに六十歳を超えていましたし、天智天皇の子である施基皇子の息子だったからです。実は藤原百川らにとっては、あえて天武天皇の血筋を崩すことが重要だったのです。

 

藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、天智系の光仁天皇を担ぎました。そもそも天武系の天皇は仏教に没頭していましたから、そこから仏教系の勢力が伸びてきて、道鏡のようなよく分からない人間が出てきてしまったと考えたのです。

 

光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらに身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。そして、道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺に追い出されました。結果、荘園(8〜9世紀の初期荘園)が増えてしまい、律令体制が崩れていくのも時間の問題となりました。





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