近衛文麿による大政翼賛会とは?
ツイート米内内閣が総辞職したあと、第二次近衛文麿内閣が誕生しますが、1940年10月に大政翼賛会を発足させました。ヨーロッパではドイツが連戦連勝をしていたので、日本もそれにならって強い国になろうという新体制運動が起こります。この運動を実現させるためにつくられたのが大政翼賛会という組織で、ドイツのファシズム政党ナチス(国家〔民〕社会主義ドイツ労働者党)を模倣したものです。
ドイツは、1918年の第一次世界大戦終結によって、ほぼ国力のすべてが破壊されていました。どうにもならないほどのインフレが起こり、しかも戦勝国からは莫大な金額の賠償金を課せられて、どうにも国を運営できなくなりますが、そういった危機が、全体主義的なものによって少しずつ回復していきます。
いかにも悪いイメージがあるナチス・ドイツですが、ユダヤ人がナチスから迫害を受けていたことや、アウシュビッツのことなどは戦後になってからはじめて分かったことで、世界中の多くの人は知らなかったことです。
むしろ、その頃の日本人にとっては、ナチスは「あれほどどうにもならなくなっていたドイツを、あそこまで蘇らせたすごい組織だ」という認識でした。それをもし日本でやったとしたら、きっと世界のトップになれると思ったのです。日本はこのとき、世界の五大国(米・英・日・仏・伊)の一つだったので、そう思うのも仕方ないかもしれません。
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そこで、大政翼賛会のもとに、すべての団体・組織を統一したわけです。簡単にいうと、財閥が経済を、軍部が政治をそれぞれ牛耳っている状態なので、あとは国民を統一すればいい、というわけです。
大政翼賛会がスローガンを発表すると、全国がそれに対して一致団結して行動に移していきます。たとえば大政翼賛会が「鉄を集めよう」と呼びかければ、全国津々浦々の町内会や婦人会、青年会などのすべての団体がまとまって鉄を集めることに邁進し、それを実現していきます。
それが結果的に戦争遂行につながっていくわけですが、その頃の新聞の論調が大政翼賛会をかばうかたちになっていたのは、そういった背景があったからです。これには、政党もすべて解散して合流していきました。労働組合や労働団体も解散し、大政翼賛会のもとに新しく大日本産業報告会が誕生し、こうやって戦時下体制が整っていったのです。
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