寺内正毅の超然内閣とは?
ツイート日本は数々の権益を手に入れることに成功し、国内産業も発達していました。それなりの成果が出たところで、第二次大隈重信内閣が終わり、その次に寺内正毅内閣が登場しました。彼は超然主義者で、長州閥で陸軍閥、そのうえ政党の意向には無頓着でした。民党にとっては、どこをとっても都合の悪い政権といえます。
国民の人気が高かった大隈重信を総理大臣に就任させ、第一次世界大戦でもさまざまな権益を獲得し、大戦景気も盛り上がった結果、国民の政府に対する支持が高まります。そうなると元老たちは、国民に媚びることをやめるのです。そのため、寺内内閣と立憲同志会の仲が悪くなりました。
国会で多数をとらなければ、いくら超然主義でも法案を通すことはできません。しかし、寺内内閣を立憲政友会が支持して、与党にまわりました。
これに対して、立憲同志会は憲政会へと組織を改変して総選挙をしましたが、結局、勝ったのは立憲政友会でした。なぜかというと、国民が現内閣を支持していたからです。戦争に勝ち、景気もとてもよかったので、そのままであってほしいと願うのは当たり前です。憲政会はそれに反対する政策なので、負けたのです。
しかし、ここで米騒動という思わぬ出来事が起こります。
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米騒動の波紋について
ロシア革命が1917年に起こりました。そしてロシアは社会主義国となりますが、それに反発する人たちが出てきます。そして、アメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国が、シベリア出兵を決定します。出兵の名目としては、チェコスロバキア軍を助けようということでしたが、実際はロシアに対する革命干渉でした。
日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。そこを見越して、米穀商人たちが米価をつり上げだしました。お米がなかったわけではないのですが、ないふりをして、売るのを惜しみだしたのです。
急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。
これに対して、寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧させようとしました。本当に悪いのは米価をつりあげている商人なのに、そちらの処罰や規制はせずに、暴れているほうのみに目を向けて強硬手段をとるというのは、いかにも軍人的な考え方です。
結局、国民や国会内部からも反対をされてしまい、寺内内閣はどうしようもなくなり、総辞職に追い込まれてしまいました。
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