日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だ...
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三国干渉が具体的にどういったものだったかというと、『三千万両と引き換えに、遼東半島を清に返還しろ』というものでした。その頃の日本のお金にしてみると、四千五百万円といったところです。結局、日本は要求をのむしかなく、遼東半島を清に返還しました。ヨーロッパの列強に迫られては、仕方なくもありましたが、とても...
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清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現...
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日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。この論を唱えていたのは、軍部の権力を握っていた山県有朋と、桂太郎などです。対して、日露協商論というのは、平たく...
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軍事的に日本側が勝利していた日露戦争ですが、ロシアは白旗をあげたわけではありませんでした。いくら軍事的に勝ったとはいえ、ロシアは大したダメージを受けていなかったので、長期戦になることが考えられました。長期戦は、日本はあまり向いていませんでした。なぜかというと、国家の予算をはるかに超えた金額を費やして...
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日露戦争が終了したあと、1907年(明治40年)に戦後恐慌というものが起こります。これは、明治四十年恐慌ともよばれていて、戦争で多額のお金を使ったのに、賠償金が全くとれなかったことから起こりました。ここで少し、時代を前に戻しましょう。明治維新が起こったあと、1880年代後半に、日本で第一次産業革命が...
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日露戦争が終わったあと、積極的に日本は韓国の支配・経営をしようとします。日露戦争の最中の1904年に第一次日韓協約を結び、韓国政府の中に日本政府が選んだ財政・外交の顧問を置きました。さらに、1905年に第二次日韓協約を結び、韓国を保護国化し、韓国が自由に外国と条約を結べないようにしました。いわゆる、...
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