護憲三派による第一次加藤高明内閣は、その後、憲政会と立憲政友会の仲が悪くなってしまい、崩壊してしまいました。そこで、憲政会独自の単独内閣として第二次加藤内閣がつくられましたが、加藤が1926年1月に死去したため、若槻礼次郎が後を引き継ぎました。そしてこの年に大正天皇が亡くなり、時代は激動の昭和へと突...
≫続きを読む
全国に広まった金融恐慌は、特殊銀行(特定の政策目的のために設立された銀行)である台湾銀行まで巻き込み、休業せざるを得なくなりました。第一次世界大戦で大もうけをした成金の一つに、台湾で砂糖やバナナなどを取り扱っていた鈴木商店という商社がありました。台湾銀行は、そこに莫大なお金(いまのお金に換算すると何...
≫続きを読む
もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときは立憲政友会の総裁でした。若槻内閣で外務大臣に就任していたのは幣原喜重郎ですが、ワシントン体制を受け入れたことからもわかるように、協調外交路線をとって政務にのぞんでいました。しかし、枢密院はそれに不満を抱いていて、緊急勅令がたびたび廃案になったりもし...
≫続きを読む
南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたため、張作霖はだんだん押されてきます。ここで関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめます。そんなことにな...
≫続きを読む
田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。1920年代というのは恐慌の多い時代で、20年に戦後恐慌、23年に震災恐慌、27年に...
≫続きを読む
浜口内閣は金本位制に戻そうとしましたが、このときの金解禁は問題を含んでいました。それは、金本位制をやめる1917年より前のレートで金解禁をおこなったことです。1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。これを旧平...
≫続きを読む
昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨...
≫続きを読む
中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でし...
≫続きを読む
若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないます。このとき大蔵大臣を務めていたのは高橋是清でした。つまり、金本位制を完全に廃止して、管理通貨制度を導入するということです。金と交換できない紙幣(不換紙幣)をもとにした通貨制度で、...
≫続きを読む