帝国議会

帝国議会記事一覧

伊藤博文による内閣制度の成立

自由民権運動がやや落ち着いてきたころ、1885年に内閣制度がはじまりました。その前の1882年、国会開設の勅諭が出された翌年から、憲法調査のために伊藤博文は渡欧し、日本に帰ったあと、神奈川の夏島に建てていた別荘で憲法草案(夏島草案)をつくりました。こうしてどんどん新しい国家づくり、国会開設、憲法制定...

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三大事件建白運動について

当時は、井上馨が外務大臣を務めていて、欧化政策を推し進めていました。欧化政策というと、鹿鳴館を建てて、夜になると舞踏会が開催されているようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。欧米諸国とは江戸末期に不平等条約を結ぶはめになりましたが、それを改正するためです。条約を改正するなかで外国人...

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第一回帝国議会の議員選挙について

内閣制度が1885年にはじまったときの総理大臣は伊藤博文〔長州〕で、これが初代です。二代目の黒田清隆〔薩摩〕が就任していたときには憲法ができ、三代目の山県有朋〔長〕だったときには第一回帝国議会が開かれ、四代目には松方正義〔薩〕が就任していて、薩摩と長州が交互に総理大臣になっていることがわかります。第...

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樺山資紀の蛮勇演説について

議会が与野党逆転していたなら、一体総理大臣はどうやって決めていたのでしょうか。現在でも、内閣総理大臣は天皇が任命しています。ただ、任命する人が同じでも、その頃と今は根拠が違います。その頃の内閣総理大臣は、元老の推薦によって決定されていました。このやり方は、太平洋戦争の前くらいまで続いていたのですが、...

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第二回衆議院議員総選挙での選挙大干渉について

二回目の総選挙は1892年におこなわれましたが、いままで過半数を超えていたのは民党だったため、薩長藩閥政府は思いどおりにすることができません。そこで、松方内閣は選挙干渉をし、民党の過半数割れを狙います。その頃の選挙権を持っていたのは、多額納税者だけでした。選挙権が持てる条件は、二十五歳以上の男子であ...

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日本初の政党内閣である第一次大隈内閣

日清戦争がはじまることで、それまで藩閥政府に反発していた民党の態度は百八十度変わります。民党のおかげで戦争に敗北したりしたらとんでもないことなので、ここではじめて、すべての予算案が可決されました。伊藤も、このあたりでそろそろ折り合いをつけておかないと、民党とはずっと平行線のままだということが分かって...

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軍部大臣現役武官制の登場について

大隈内閣の次に登場するのが、第二次山県内閣で、1898年11月に発足します。政府に対して民党がなかなか文句を言えない状況があったというのもありますが、山県有朋は、民党の言うことなどまったく気にするそぶりもなく、それまで政府がやりたかったことを次々におこなっていきます(超然主義)。最初に、地租の増徴を...

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伊藤博文による立憲政友会の誕生

藩閥政府の中でも、派閥というものは存在していて、伊藤博文を軸とした派閥と、山県有朋を軸とした派閥に分かれていました。二人とも長州閥ですが、性格が違っていたのでしょう。山県が握っていたのは官僚と陸軍で、どちらかというと官僚主導的な性格をもっています。それに対して、政治主導だったのが伊藤で、意見が合わな...

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