江戸幕府の初期

江戸幕府の初期記事一覧

なぜ、徳川家康は天下をとれたのか?

ここから江戸時代にはいっていきますが、大きく三つにわけて、それぞれ17世紀、18世紀、19世紀と見ていくと分かりやすいと思います。17世紀の前半は武断政治の時期、後半は文治政治の時期です。18世紀は政治改革期といわれていて、まず、新井白石の正徳の治、次に八代将軍徳川吉宗の享保の改革、さらに田沼意次の...

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徳川家康の関ヶ原の戦いについて

1598年、秀吉の息子の秀頼がわずか五歳のときに、秀吉は亡くなりました。その頃家康は五大老の筆頭で、はじめは秀頼の後見人という立場にいましたが、だんだん秀頼を無視するようになり、伏見城で実権を握っていきました。そうなると反乱が起きるのは当たり前です。そして、1600年に関ヶ原の戦いが勃発します。これ...

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江戸幕府の圧倒的な財政基盤

家康がくる前の江戸城は、そこまで大きなものではなく、室町時代の中期に太田道灌という人が建設したものでした。江戸城が段階的に、どんどん大きくなっていくのは江戸時代にはいってからです。征夷大将軍になったのち、家康は全国の大名に対して、江戸城と江戸市街地を造りなおすように命令しました。そのために、肉体労働...

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大阪冬の陣、夏の陣による豊臣家の滅亡

前政権の豊臣家は、徳川幕府にとって、いつ逆襲されてもおかしくない、非常に目障りな存在でした。いくら一大名に位が落ちているとはいえ、豊臣秀頼の拠点は摂津・河内・和泉という現在の大阪府で、住まいも大阪城でした。その頃の日本の商業が一番栄えていたのは大阪だったので、その中心に六十万石の大大名がいるというの...

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徳川家光による鎖国政策の背景

三代将軍である徳川家光は、「自分は生まれながらの将軍である」と豪語しています。安土・桃山時代において、家康と秀忠は、いま家来になっている大名たちには戦争のときに助けられたり、いろいろお世話になった部分があったので、全面的に自身を押し出せないところがあったようです。しかし、家光は1604年生まれで、関...

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天草四郎の反乱である島原の乱

キリスト教の布教は、スペインやポルトガルなどのヨーロッパ人が日本にやってきた大きな目的のひとつです。なにも、貿易のためだけではありません。当初、幕府はヨーロッパとの貿易を積極的に推し進めていたため、宣教師が入国したり、布教活動をおこなうことも致し方ないと思っていました。その結果、キリスト教徒が急に増...

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江戸幕府による幕藩体制の確立と大名統制

江戸幕府が長続きした理由で大きなものは、鎖国と幕藩体制の確立です。江戸幕府といえども、支配していたのは、前に書いた幕領(天領)四百万石、それと旗本知行地三百万石の合計七百万石でしたので、日本中のすべてを支配していたわけではありません。その他の領土は大名のものであり、大名自身が支配していました。そこで...

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牢人の発生と由井正雪の乱について

ちょうど17世紀の真ん中の1651年に、三代将軍である家光が死去します。 初代・二代は将軍職を自分が生きているうちに子どもに譲り、大御所として背後から政務をとっていました。息子を一人前の将軍にしていくためにも、父親はそのサポートにまわっていたのですが、家光は病気で急に死んでしまったため、子どもの家綱...

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保科正之による末期養子の禁の緩和

文治政治の政策の一つが、末期養子の禁の緩和です。死ぬ直前に養子をむかえることを、末期養子といいます。この頃は江戸幕府ができてから50年たっていたので、幕府に逆らうような大名はほとんどいなくなっていました。牢人が氾濫したことの大きな原因は改易に変わりはないのですが、それがすべてというわけではありません...

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徳川綱吉による学問の奨励

徳川家綱の後継ぎが、五代将軍・徳川綱吉です。もと館林藩主だったのですが、家綱の養子になり、将軍に就任しました。最初のうちは堀田正俊大老のサポートを受けて、政治改革につとめました。彼が重要視していたのは、学問の奨励です。武力で人々を制圧するのではなく、文治政治をおこなっていくということは、法で支配して...

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徳川綱吉による生類憐れみの令

徳川綱吉といえば、「犬公方」なんて陰口をたたかれるくらい、1685年に公布した「生類憐みの令」が有名ですね。「動物を愛護し、生命を大事にしましょう」というスローガンとしては動物愛護の精神にあふれていて素敵なのですが、少々いきすぎていた部分があったようです。野良犬を追い払っただけで牢屋入りでした。これ...

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徳川綱吉の時代の財政難について

結局、いろんなことを試してみても綱吉には、子どもができませんでした。しかし、そのためにそうとうなお金が使われていたので、とうとう財政難を迎えます。学問の奨励するのにも、惜しみない投資が必要でしたが、原因はそれだけではありませんでした。これは一つ前の四代・家綱の時代のことでしたが、明暦の大火が1657...

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徳川綱吉の元禄小判の鋳造

この財政難をなんとかしなければいけない、ということで、1695年に元禄小判の鋳造がおこなわれました。勘定吟味役の荻原重秀がこれを主導しました。つまり、新しい小判をつくったのですが、いままでの小判の金の含有量が四匁(約十五グラム)だったのに対し、新小判は二・六匁(約十グラム)と、およそ三分の二ほどに減...

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